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2 いま、大学の何が問題なのか?(その1)

2章を書きます! ちょっと過激ですが。なお、以下は私自身の個人的な意見であり、いかなる組織の考えを代表するものでもないことを(つまり慶應SDM研究科委員長としての意見ではなく、一個人としての意見であることを)あらかじめお断りしておきます。

2 いま、大学の何が問題なのか?

大学の22の問題点
 第1章では、SDM学が解決すべき社会の問題について述べた。第2章では、慶應SDMが置かれている大学教育界における立場を明確にするために、大学の問題点一般について述べよう。
 現代は大転換時代である。第1章でそう述べた。そうであれば、社会に対して中立な大学は、目先の利害対立を超え、次代を大きく見据え、人類の進むべき道を指し示すようなスケールの大きい研究・教育をできてもいいはずである。いや、本来、まさにそれが大学の使命であるべきなのではないか。ところが、それができていないばかりか、社会から、特に産業界から見放されている感がある。
「企業は大学の教育に期待しているのではなく、その大学に入った学生の大学受験時の学力に期待しているのだ。」
これまで、何人もの企業人から聞いたことのある、大学人にとって屈辱的な表現。私も十年近く企業に勤めていたことがあるので、そう言いたくなる企業人の気持ちもわからないではない。とはいえ、企業のこのような姿勢には問題があると思う。もちろん、大学の側にも大いに問題があると思う。
 では、大学の何が問題なのか。
 大学教員として(しかも組織の長を授かる者として)、日本の大学の問題点を糾弾することを躊躇しないでもないが、大学への恩を仇で返すためではなく、より良い大学教育・研究のための、一教員のまじめな意見なので、以下に列挙してみたい。

(1)大学教員の世間知らず
実は、大学教員の大多数は、大卒後、大学しか経験していない教員である。それではだめと断言するつもりはないが、そのためもあってか、学会しか見ず、社会のニーズ(社会のニーズについては後述)を的確に把握していない大学教員が少なくない。極論すれば、そもそも、社会に適合できないから大学教員になったというタイプも少なくないように見受けられる。そういうタイプの方は、別に悪気があるわけではなく、もともと社会のニーズを理解することが得意ではないので、本当の意味での社会のニーズをなかなか理解できない。

(2)研究至上主義
大学教員(少なくとも著名大学の教員)にとって最も重要な仕事は、いわゆる学術誌に論文が掲載されることを目指すタイプの学術的研究を行うことである(授業ではない。自分の研究と、研究を通した教育である。大学教員は、“学者”なのである)。ここまでは私も賛成である。大学教員は学者として一流であるべきだと思う。しかし、学術的研究成果を挙げること”のみ”に重点を置く教員が少なくない。しかも、学術研究成果を発表する場である学会のレベルも、各教員の論文のレベルも、千差万別である。残念ながら、社会のニーズと乖離し、学会を持続させることが自己目的化しているように見える研究も少なくない。もちろん、当の大学教員は、その世界しか知らないし、各人の視野の範囲でしか世界は見えないため、何も悪気はない。一方、社会を知らない学生の方も、それが問題だと知らないから、そんなものかと思いつつ、あまり興味の湧かない学術研究を行うことになりがちである。互いに不幸である。

(3)社会のニーズの不理解・勘違い
もちろん社会のニーズとは「すぐに社会で役に立つこと」というような短絡的な意味ではない。社会は大学に、重箱の隅をつつくような学問ではなく、世界に横たわる多様な問題を根本から捉えたり、学問として体系化したり、それをもとに市民を啓発するような、実業界にはできない高度な知の集積とその実践を願っている、という意味である。そういう創造的で唯一無二の研究ではなく、陳腐で演習問題的な研究が少なくない。なのに、「すぐに役に立つ研究よりも、いつ役に立つかわからないような独自の研究が重要」と開き直る方も少なくない。もちろん、当の本人は、開き直っているつもりはない。大まじめである。ニーズを見るのが得意でないがゆえに、井の中の蛙であるだけである。

(4)育成する学生像の勘違い
実は、学会向けの学術研究には独特のパターンがある。社会における技術レポート等とはかなり書きっぷりが異なり、社会人学生の苦労するところでもある(要するに、学術論文は自分の業績の新規性についての確実で論理的な記述を最重視するが、技術レポートではその技術の実現可能性や市場拡大性の可視化を最重視する)。ところが、世間を知らない大学教員は、学術論文の書きっぷりが研究成果公表の唯一のパターンだと信じて疑わないから、それを学生に押し付ける場合が少なくない。しかし、学者になることを目指さない多くの学生に対しては、そのやり方が最適の教育方法ではない場合が多々ある。学者以外の道で活躍する者は、そんな特殊なお作法を学んだってしょうがない。もちろん役に立つこともあるが、彼らのための最適な教育ではないことは明らかである。なのに、外の世界を知らない大学教員には、自分の分野以外のやり方は、残念ながらわからない。だから、痛々しいことに、大学教員は自分のやり方をこつこつと学生にまじめに教えることになる。

(5)研究分野の縦割り化・重箱の隅つつき化
「大学教員は弟子になるほど小振りになる」といわれる。言い得て妙である。大物の弟子は、親分の言うことを聞かなかったり、違うことを言ったりするので、反逆者に見えてしまう。よって、後継者になりにくい。小物の弟子は、親分の言う通りに仕事をこなすイエスマンなので、優秀に見えてしまう。だから後継者になりがちである。この原理で小物が生き残るせいなのか、嘆かわしいことに、学会一般に、根本的、体系的研究は実に少なく、重箱の隅つつき的研究は実に多い。そもそも、スケールの大きい思考をできる者が博士課程に残るような風潮になっていないから、ちまちました研究がはびこりがちであるというのも、原因の一つであろう。現代日本では、一番優秀な学生やバランスのいい学生は博士課程に残らず実業界に行く。狭く深く、というオタク型の研究に魅力を感じないからであろう。

(6)研究体制の縦割り化、知識偏重型研究の蔓延
放っておくと、学問分野はどんどん細分化され、どんどん細かい学会ができ、学会間の垣根は次第に高くなり、縦割り化が進む。同時にその分野で学ぶべきお作法が増え、新分野に打って出ることよりも既存分野を学ぶことの方が学者の中心課題であるという認識が高まっていく(もちろん、高度な知識が必要な場合もあるが)。大企業は、組織が老朽化したあげくに大企業病になり市場原理により市場から撤退するから新陳代謝が進むが、学会の縦割り病は、だれも病気だと気づかないし、そもそも改善するメカニズムがないから、自己増殖を続ける。手が付けられない。しかも視野の狭い学者達はその問題に気づいていない。

(7)高度専門職業人育成の誤解
もちろん高度専門職業人も必要だが、同じくらい、いや、より高い頻度で、専門間の垣根を越えて複合的な問題を解決する人材が現代社会では必要である。そのことが学者たちには理解されていない。自己増殖した重箱の隅つつき研究に明け暮れた結果、この研究の重要性に気づかない社会の方が馬鹿げているといった偏った認識に陥りがちである。もちろん、社会の方がその研究の重要性に気づいていないケースもあるだろうが、多くの場合、大規模・複雑化し互いに影響し合う現代的な複合問題を解くためには、高度専門職業人よりも複合的・複眼的問題解決者の必要度が高いのが、グローバル時代・ネットワーク時代というものだ。

(8)学問間の壁を越えた俯瞰型・問題解決型学問の不在
そもそも、これまで、学問は細分化・縦割り化するばかりで、学問間の壁を越えた俯瞰型・問題解決型学問に向かうことは皆無であった。学問間の壁を越えるための場を作る試みはこれまでにもあり(たとえばSFC)、重要な成果をあげてきたが、場だけでは不十分である。学問間の壁を越えた俯瞰型・問題解決型学問を作る必要がある。体系化され、知が集積した学問になってはじめて求心力を持つからである。

(9)教員待遇の社会主義的平等主義
大学教員の給与は、年齢や在籍期間等をもとに画一的に決められるのが一般的である。能力の差は給与に反映されない。じっくりと腰を落ち着けて自分のやりたい研究を行うために悪くない面もあるが、少なくとも自由競争が競争力を高めることは自明である。

(10)教員評価の研究偏重
「教育のことを語り始めた教員は、もう歳をとって研究ができなくなったと考えよ」という表現をよく聞く。つまり、大学教員とは、自らの研究をするための仕事であり、授業や教育は二の次、という風潮が日本では根強い。以前よりは多少トーンダウンしたけれども、大学教員の圧倒的多数派は今もこのタイプだ。

(11)偏差値至上型大学ランキング
あまりにも根強い、馬鹿げた風潮。入試の偏差値が高いほどいい大学、という序列化。入試の偏差値が高い学生は「日本の入試型の答えのある暗記型問題を解く能力に優れている」ということに過ぎないのであって、社会で必要なその他の重要な能力――たとえば創造的問題解決力やリーダーシップ能力――とは無関係なのに。現代日本の問題の最大の元凶は「試験問題解答力=頭がいい」という間違った図式を、高校生から企業人まで、多くの人が信じていることである。これからの時代、記憶はクラウドに任せておいて、人間は創造的活動をする、という傾向がますます強まるであろうに。

(12)画一的入試
もちろん、画一的入試も同罪である。ある高校の先生に「慶應が推薦入試をするから、東大に受験で入れる学生が慶應に推薦で行ってしまい困る」と言われたことがある。びっくりした。まさに、東大を頂点とする一極集中図式で大学を見ている。推薦入試、AO入試、帰国子女入試、附属高校等、多様な入試・進学形態は、まさに、偏差値だけで人を判断するのではなく、多様な尺度で優れた人材を発掘しようとする試みである。残念ながら、AO入試で取った学生は学力が低いのでAO入試はやめよう、という風潮が強まりつつあると聞く。時代に逆行しており、残念極まりない。

(13)国際性の欠如
残念ながら、日本の大学は、留学生の数、英語での授業、外国籍教員の比率、国外大学との提携教育・定型研究などが少ない。日本人の海外留学も近年激減している。グローバル社会に逆行した困った現状である。そのためもあって、日本の大学の世界ランキングは散々である。

(14)経営者不在
大学の学長や学部長には、大学教員がなることが多い。そもそも教育の訓練を受けずに教育をしていること自体も問題だが、経営の訓練も受けず、経営センスもないのに経営をしている学長、学部長が少なくない。どの経営者も最初から経営者であったわけではないので、経営訓練を受けていない学長・学部長はみんなだめ、とは言わないが、専門家が担当した方が適切かつ効果的な場合も多々あろうに。

(15)過酷な大学受験と不平等な就職待遇
受験戦争に疲れ果てた大学生がつかの間のパラダイスを謳歌する、という日本の大学のふざけた図式は、基本的には戦後定着したままであり、嘆かわしい。その原因の一つが、企業の大卒一括採用制度。同じ時期に、同じ給与で新卒学生を採用するという不平等(一般に悪平等と呼ばれるが、平等ではない。個人差に配慮しない不平等である)。学生の成績や研究成果、様々な経験により給与に差を付けたり、そもそも一年中入社できるようにしたりして、就職活動は大学卒業後に行うように、仕組みを抜本的に変えるべきだと思う。

(16)就活の長期化と迷走
既に述べたように、就職活動には問題が多いが、学部だと三年後期から、大学院修士課程だと一年の後期から、学生は本格的に就職活動に入る。しかも、できの悪い学生ほど、やみくもにいろいろな業種のいろいろな会社を受けるから、的が絞れない結果、連戦連敗で疲れはてる。授業もサボり、研究も進まず、就活もうまくいかない、となると大問題である。なんのために授業料を払っているのか。

(17)学生の無気力・無ビジョン
大学四年生くらいの学生に、将来の夢やビジョンは、と聞くと、半分くらいは、それなりの夢やビジョンを答える。しかし、残りの半分は「夢やビジョンはない」「普通に暮らしていたら、そのうち夢は見つかるのではないか」という。夢は待っていて向こうからやってくるものではない。「When You Wish Upon a Star」というピノキオの主題歌は「星に願いを」と訳されるが、本来はそんなほんわかしたタイトルではない。「もしもあなたが(自分の意志で)星に願ったならば(あなたの願いは適うでしょう)」という能動的な意思の歌である。日本の若者もピノキオくらい強い気持ちを持っていてくれればと、星に願いたくなる。

(18)初等・中等教育者の不理解・勘違い
高校教諭の勘違いについては既に述べたが、小学校から高校までの教員の多くに言えることがある。それは、社会との接点が少ないという点だ。多少社会との接点のある大学教員でさえ、これまでに述べて来たように世間知らずという有様である。社会との接点の少ない初等・中等教育の先生方の世間知らずと言ったら、大学教員に輪をかけてひどい。先生のせいというよりも、受験という社会システムのせいというべきだろう。目の前に児童・生徒の受験が控えているから、小学校は中学校、中学校は高校、高校は大学しか見ていない場合が多い。特に、受験校がひどい。社会経験のある教員の採用等の動きもあるにはあるが、もっと、小学校から大学まで、社会との濃密な接点を持つべきだ。そのための一つの方法は、受験戦争の廃止である。容易ではないが、もうすぐ大学全入時代を迎える今こそ、抜本改革のときではないだろうか。

(19)博士課程学生の狭い視野
前に述べたように、日本では博士課程に進学する学生の視野が狭い。起業家精神があればいいとはいわないが、アメリカの博士課程学生は起業する気満々の、バランス感覚に優れた者が少なくない。一方、日本では、残念ながら、社会に出てジェネラルに仕事をすることよりも、深く狭く何かにスペシャルに熱中したいというモチベーションから博士課程に進学する者が多い。つまり、そもそも、母集団が異なる。抜本的に博士課程の価値から改革しないと、日本の博士課程の未来は暗い。一部の、深く狭くという方向を大いに活かして本当に一流の学者になる者を除いて。

(20)多すぎる大学院学生定員
博士課程の魅力がない割には、日本の大学院の博士課程学生定員は少なくない。抜本的に魅力を上げるか、定員を減らすか、二者択一である。なのに、文科省がやって来たことは定員増とポスドク(オーバードクター。つまり、博士号取得直後の者)ポスト増。ポスドクの後の就職先を増やさずに、ポスドクのポストだけ増やしても、問題が先送りされただけだ。やるべき施策がまちがっていないか。

(21)社会人再教育システムの不備
アメリカだけが優れているというつもりは毛頭ないが、私がいたことのあるアメリカの大学院(カリフォルニア大学バークレー校とハーバード大学)の学生の平均年齢は三十歳前後だった。過半数の学生は、何らかの意味で社会経験者。日本は、ビジネススクール等の特殊なケースを除くと、大学を出たての新卒学生が大学院に入るのが普通である。しかし、学問分野にもよろうが、社会経験を積んでから勉強した方がより身に付く分野は少なくない。また、問題意識の高い大人は真剣味が違う。それに、高齢化社会である。大人の学びの需要はこれからも増大していくであろう。しかし、一般的な大学院はそれに対応していない。時代に合致していない。

(22)社会の声を聞く仕組みの不備
前にも述べたように、大学は「すぐに役に立つ即戦力」を育成するのではなく、本質的・根源的・基盤的能力を陶冶する場であるべきだと思う。だとしても、社会の声を聞くべきである。どのような、本質的・根源的・基盤的能力を育成すべきか、時々刻々と変化する社会の要請に常に耳を貸し、あるときは学問の方向性を修正し、またあるときは社会に迎合せず毅然と自らの信じた方向を目指すべきである。しかし、それは、社会の声を聞かないこととは異なる。社会の声を聞いた上でこそ、学問の位置づけが相対的に認識でき、真の意味での学問の独立が保てるのである。ところが、一般に、社会の声を聞くメカニズムは十分整備されていない場合が少なくない。以前よりは改善されつつあるが、まだまだ生ぬるい。

 かいつまんで書いたが、まだまだ書きたいことはたくさんある。しかし、大学(ないしは小中高校)批判が本書の目的ではない。
 もう一度強調しておくが、既存の大学・大学院(ないしは初等・中等教育)は前記の問題があるからすべてダメだ、といいたいわけではない。長い年月をかけて受け継がれて来た学問を伝承し、さらに発展させてゆくという高等教育の一つの使命を否定するつもりは毛頭ない。これは極めて重要なことである。しかし、それだけでよいとは思わない、ということである。イデオロギーに保守と革新があるように、大学院のあり方も、学問を守る従来型と、学問を革新する新規型があるべきだと考えたとき、後者が圧倒的に不足している、というのが私の問題意識である。そして、後者により22の問題点を解決すべきだし、解決可能である、ということを述べたいのである。

つづく(その2へ)

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