体罰は御法度という現代社会では、こんな、本人が感謝する愛の鞭も失われてしまうのだなあ、としみじみ思う。愛があれば体罰もOKとはいわないが、基本は心のふれあいですよね。
殿堂入り大野氏「江夏さんと古葉監督のビンタ忘れない」
野球殿堂入りを決める野球体育博物館は11日、競技者表彰として広島の投手として活躍した大野豊氏(57)と外木場義郎氏(67)をそれぞれプレーヤー表彰とエキスパート表彰で選んだと発表した。ドラフト外入団で初の殿堂入りを果たした大野氏が手記を寄せた。
こんな日が来るとは夢にも思っていなかった。軟式野球出身の田舎のサラリーマン。広島入団は76年、テスト生だった。エリートでもない私が殿堂入りの栄誉をいただいた。98年9月27日の引退試合で話した「我が選んだ道に悔いはなし」。その言葉があらためて脳裏によぎった。感慨深い。
プロ初登板が原点だ。旧広島市民球場であった77年9月4日の阪神戦。制球が定まらず、1死を取っただけで5失点KOされた。防御率にして135・00。終わったと思った。誰にも会いたくない。合宿所まで約3キロの道のりを1人で歩いて帰った。悔しいという感情じゃない。情けない。恥ずかしい。涙が出た。
母・富士子の一言が忘れられない。打ち込まれたことを電話で伝えると、「1試合の失敗で諦めちゃダメよ」と冷静に諭された。母を楽にしたいと思って入ったプロ。くじけるわけにはいかない。覚悟を決めた。
島根・出雲市信用組合での3年間が生きた。いわゆる銀行マン。窓口業務があれば、預金獲得のノルマもある。若造にいきなり大口契約は難しく、地道に足を運んで件数で数字を達成するしかない。一度断られたぐらいで、くじけてはいられない。野球だって同じだ。大事なのは粘り、積み重ね。負けたくない、認められたいと思えば、練習で体を動かすしかない。
出会いにも恵まれた。中でも江夏豊さん。2年目の78年。南海から移籍され、以降の3年間、お世話になった。軟式の社会人時代、希望してつけた私の背番号は28。それぐらい憧れた人。まさか見てもらえるとは思わなかった。
指導が支えになった。制球力をつけるため、同年春のキャンプで左肩が下がり、右肩が上がる悪癖をスクエアに修正。シーズン中にはビンタももらった。場所は神宮。普段から「キャッチボールをおろそかにするな」と教わっていたが、当日は肘が痛く、思うところに投げられない。痛みを理由にもできず、「きょうのお前は何だ」となった。
現役生活22年。手を出されたのは、江夏さんと古葉監督の2回だけだ。古葉さんは同じ失敗を嫌う。四球を出して打たれた時に手が出た。うれしかった。師匠であり恩師。ふがいない私を何とかしようと向けられたビンタ、その痛みとぬくもりは今でも忘れられない。
てんぐには絶対なるまいと思ってやってきた。無理して愛想よくしているのでは…と言われたこともある。が、どんな実績があっても野球を取ればただの人だ。その思いは変わらない。出会いに、お世話になったすべての人に感謝したい。そして家族。母と妻、2人の娘の協力と支えがあったからこそ、こうした栄誉をいただけたと思う。
私は体力、技術、精神力のすべてが足りない選手だった。軟式出身でもできる。テスト生上がりでもできる。この受賞が若い選手たちの励みになればうれしい。
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