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2004年発売の『脳はなぜ「心」を作ったのか』に載らなかった原稿

2004年に発売された『脳はなぜ「心」を作ったのか』のために書いた原稿の一部が、実は、編集者の方から「SFチック過ぎる」と言われて没になりました。

あれから19年。確かに「50年で寿命が2倍に」は言い過ぎだったようにも思えますが。。。幸福学の研究を始めた2008年よりも前に書いた原稿ですが、愛について述べている部分など、幸福学に相通じる部分もあります。ご興味のある方はぜひ読んでみてください。

5・6 永遠の命は可能か?

あと50年で平均寿命は倍になる

永遠の命は可能か。この問いは、ふつう、宗教的な、霊的な問いかけかもしれない。二元論者が好む疑問かもしれない。二元論者は、死後も霊魂は存続すると考える。しかし、心が脳の産物であると考えられる以上、死後の世界があるのではないか、という考えは、残念ながら期待薄だ。
ただし、科学は宗教を否定する力を持たない。地動説が地球中心の世界観を否定しても宗教はなくならなかったように、また、ニーチェが「神は死んだ」と言ってもそれが全人類に受け入れられたわけではないように、死後の世界が否定されても宗教は存在し続けるのかもしれない。科学と宗教は、目的や対象が違うのだから。
ただ、二元論には無理がある。『血液が血管の中を流れるのは、ポンプである心臓のおかげではなく、何か他の霊的な力が働いているはずだ』と考えるのは勝手だが、そんな考え方が一般に受け入れられないのはご想像通りだ。脳と心の話も同じだ。『心が存在するのは脳のおかげではなく、何か他の霊的な力が働いているはずだ』と考えるのは勝手だが、心臓はポンプではないというのと同じように、そんな考え方は百パーセント近い人が認めない時代が、もうすぐ、(いや、いつの日か、)来るだろう。
というわけで、私は宗教を敵にまわすつもりはないが、しかし、霊や死後の世界は絶対に存在しないと思っている。たぶんそう思っている人は、そうかもしれないが認めたくないと思っている人も含めると、少なくないのではないかと思う。
永遠の命は可能か。ここでは、人間の命を永久に、あるいは半永久的に、持続させることは可能か、という意味で、このことを考えてみたい。
楽観的に考えて、あと五十年くらい経つと、人の平均寿命は今の二倍くらいになるのではないかと思う。もちろん、テクノロジーの進展によって。
そんな無茶な、と思う人もいるかもしれないが、根拠を以下に述べよう。
自動車が故障したとき、故障した部品を修理するのと、その部品を新品と取り替えるのと、どちらが信頼できるだろうか?当然、交換だ。さびて穴が開いたガソリンタンクの穴をふさいでもまたその隣に穴が開く。磨耗してしまったブレーキパッドを修理することは難しい。それよりも、ガソリンタンクやブレーキパッドを新品に取り替えるほうが、はるかに自動車の製品寿命を高める。極端なことをいえば、すべての部品を新品に交換し続ければ、その製品は永遠に使える。
だから、人が作り出した製品が故障したときには、部品を交換してきた。電気製品を修理に出すと、いろいろな部品が交換されるので、本当にこんなに交換しなければならなかったのか、と疑いたくなるほどだ。
ところが、これまでの医療は、人の部品の交換ではなく、修理で対応してきた。それは、実は、交換部品がなかったからだ。胃に穴が開くとふさぐしかなかったし、関節が磨耗したら痛み止めを打ちながらだましだまし使うしかなかった。

修理技術から交換技術へ

これに対し、最近は、人工の生体代替材料の開発が盛んだ。さらに画期的なのは、ティシューエンジニアリングやバイオテクノロジーの進歩だ。
ティシューエンジニアリングによって、人のからだの交換部品が作れるようになってきた。また、バイオテクノロジーの進歩によって、自分の内臓や組織を培養できるようになり始めている。これはすごい変革だ。人のからだの治療が、部品の修理から、部品の交換という全く新しいやり方に変わりつつあるのだ。
CCDカメラを大脳皮質の視覚野につないで、目の代替をさせよう、というような研究が始まっている。かなり情報量の小さい画像ではあるけれども、目の見えない人に、明るい・暗いといったパターン画像を見せることに成功している。また、筋肉に筋電計をつないで、手足にはめた電動義手や電動義足を動かせるようにしよう、という研究も始まっている。こちらもまだかなりラフな動きしかできないけれど、手足の動かない人や失われた人が、自分の力で食べ物を口に運んだり、歩行をしたり、できるようになり始めている。
このように、これまで修理技術の進歩によって伸びてきた人の寿命は、これから、交換という革新技術によって、画期的に伸びる。人のサイボーグ化といってもいい。これは楽観的な予想ではない。パラダイムシフトの必然だ。
バイオテクノロジーの発展に大きな役割を果たすもう一つの科学技術は、コンピュータ技術だ。
インテルの設立者が一九六五年に見つけたムーアの法則という経験則によれば、半導体技術(正確には、ICチップ上に集積されたトランジスタや抵抗などの素子数)は、一・五年で二倍になる。ざっと十年で百倍、三十年で百万倍、五十年でなんと百億倍だ。この果実は、これまでは工業製品の高度化やオフィス・工場の合理化として結実してきた。今後は、この技術が、遺伝子の解析や脳神経回路の解析にも大きく生かされるだろう。
遺伝子の解析は、ティシューエンジニアリングやバイオテクノロジーの発展につながる。つまり、どうすれば個別の内臓や組織を培養できるかが解析され実践されるだろう。もちろん、病理の原因や対処法の解析も進む。つまり、遺伝子解析技術は、からだの交換技術の進展に大きく貢献することになる。

脳も交換

また、脳神経回路の解析技術は、脳の交換可能性を大幅に高めるだろう。からだと同様、脳も交換可能になれば、人の寿命の延びはさらに加速するだろう。
脳神経はあまりにも複雑なので、部分的にせよ交換は難しいのではないか、という気もするが、楽観的になれる技術も出てき始めている。
人の神経回路網がもつ柔軟な適応能力だ。人の神経回路網は、そもそも群れで情報処理をしている。一つの神経細胞が何らかの意味を表すわけではなく、いくつもの神経細胞群の発火パターンが何らかの意味を表す。そして、訓練すれば、ある場所の神経回路網が他の場所と同じ処理をこなす、というようなことも難しくない。
たとえば、脳梗塞を経験した人がリハビリをすると、失われた運動能力や言語能力が再現する。これは、脳梗塞により失われた脳神経回路とは別の脳神経回路が、同じ機能を代替することによる。また、強引な研究だが、大脳の視覚野に耳を、聴覚野に目をつないでやると、なんと、視覚野が聴覚情報処理を、聴覚野が視覚情報処理を行なえるようになるという。
だから、実は、ある程度ラフに人の脳神経回路網と人工の神経回路網をつないでやれば、しばらくのリハビリの後に、人の脳神経回路網のほうがその接続に適応するというマジックが期待できる。脳神経回路網一本一本の役割がすべて解明されていなくても、どこに何をつなげばどんなことができるのか、ということが明らかになっていくのだ。そんなわけで、多くの脳神経学者やロボット工学者が予想するよりもかなり早い時期に、人のサイボーグ化が進展していくだろう。
サイボーグ化できないのは〈私〉だ。なにしろ、〈私〉は自己意識のクオリアだから、これを入れ替えることができたとすると、前野隆司がいなくなり、前野隆司二号になってしまう。
幸い、〈私〉は無個性なクオリアに過ぎないから、〈私〉を作り出すニューラルネットワークは、大脳全体に比べればはるかに小さい。だから、もしも〈私〉がどこにあって、他の箇所とどんなふうにつながっているかが解明されれば、それ以外のからだと脳のすべてをサイボーグ化することによって、人は生きながらえることができるようになるだろう。〈私〉以外の部分の調子が悪くなったら、人工物に交換すればいい。身体と心の機能が、義手、義足、義眼、義「知情意」、義「私」といった人工物に代替され、究極的には、〈私〉以外のすべてを置き換えることができるようになるだろう。
あと五十年で人の平均寿命が今の二倍になる、という私の予想は、今述べたような理由により、はったりではない。楽観的であることは認めるが、実現不可能な夢物語ではないと思っている。二十世紀はコンピュータがどんどん進歩した時代だったのに対し、二十一世紀は人の寿命がどんどん延びる時代になる。
科学技術の進歩はとどまるところを知らない。楽観的な予想をさらに延長すれば、以下のようになる。
人の寿命をいま二百歳くらいにできるならば、そして、科学技術がさらに順調に進展するならば、今から百年から二百年の後には寿命を三百歳にするくらいの技術が見つかることだろう。だから、人は三百年生きられることになる。次の百年のうちには寿命を四百歳にするくらいの技術が見つかるだろうから、四百年生きられる。四百年生きていれば……。残念ながら私たちの世代には間に合わないが、私たちの子供の世代では画期的な長寿が実現できるのかもしれない。

もうひとつの永遠の命

私が永遠の生命は可能だと考えるもうひとつの筋道についても述べよう。実はこちらが本題だ。
それは、仏教の悟りの境地に似ている。修行は不要だが。あるいは、ガイア仮説とも似ている。
先ほども述べたように、〈私〉というのは無個性な小さな存在であり、あなたが持っている大切な〈私〉も、隣の人が持っている〈私〉も、基本的に何も違わない。〈私〉は、高度な生命体さえあれば、どこにでも簡単に生じるものだということができる。何千年も前の人が持っていた〈私〉も、何億光年のかなたに住む宇宙人の〈私〉も、あなたの〈私〉もわたしの〈私〉も、そしてたぶん魚の〈私〉も、みんな本質的に同じものなのだ。なんて普遍的で超時空間的であることか。
そんな〈私〉を集合体として見たとき、これが永遠でなくてなんだろう。〈私〉のネットワークは、時間を超え、空間を超え、無限にちりばめられていて、永遠に続いていく。そう考えると、永遠の命は可能だ。あなたの知情意と記憶の命は有限だが、あなたの〈私〉の命は、輪廻のように、永遠に、確実に、受け継がれていくのだ。
眠る直前とか酔っ払ったときのなんともうつろな気持ちのいい状態は、永遠の命を垣間見ている幸福なのかもしれない。
眠くて気持ちがいいとき、あるいは酔っ払って気持ちがいいときとは、自分という現象が外側からあいまいになっていき、身体、「知情意」、「私」の中の〈私〉以外の部分が次第に取り除かれていった状態だ。つまり、〈私〉だけに近づく体験。これは、前に述べた宗教家の断食体験とも似ている。自分から余計なものを取り除くと、世界とつながった〈私〉だけになる。だから至福の気分になれるのかもしれない。
そして人は眠りにつく。眠りとは、意識のない状態。つまり、自分が次第に薄れていって、ついには〈私〉さえも取り除かれた状態だ。これは〈私〉にとっては死と同じだ。朝になると再び〈私〉が現れる、という点が死と違うに過ぎない。
つまり、眠りにつくときの気持ちとは、自分からすべてを取り除き、最後には〈私〉をも取り除くことによって、時間を超え、空間を超え、無限にちりばめられた〈私〉のネットワークの境地を垣間見る、仮想の死なのではないかと思う。

5・7 愛・真・善・美とは何か?

私たちはなぜ人を愛するのか?

ささやかな〈私〉は時空を超えて宇宙に広がるネットワーク。そう考えると、私たちの自己意識である〈私〉は、なんだかほっとした気分のクオリアを実感する。〈私〉はひとりぼっちじゃない!しかし、同じような〈私〉が世界にたくさん散らばっていたとしても、それらがただ離れて孤独に存在しているだけだったとしたら、あんまり嬉しくない。というより、むしろ、寂しい。〈私〉たちは、孤立しているのだろうか。それとも、つながっているのだろうか?つながっているのであって欲しいが、もしそうなら、どのようにつながっているのだろう?
「心」を辞書で調べてみると、「心をこめる」「心を尽くす」「心ある」「心から感謝する」「心遣い」「心尽くし」「心強い」「心憎い」「心変わり」「心残り」など、情緒あふれる表現が並んでいて、人と人との暖かいふれあいを感じる。そう言われてみればそうだ。この本では、これまで、「心」は「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」から成る、などとかたいことをいってきたが、考えてみれば、心とは、もっと暖かいものだった。心と心はそもそもふれあっていたのだ。心のふれあいという、人間にとって最も根源的で大切なことと、〈私〉や「私」はどう関わっているのだろうか。
このことを考えるための鍵は、「愛」だ。
「愛」は一般に科学技術の研究対象ではないことになっているが、少し考えてみよう。
「愛」は少なくとも無機質な物理世界には存在しない。心が生み出したものだ。「嬉しい」「悲しい」といった一人称的な「情」と深く関わっているが、他人や外界との積極的な関わりあいである「意」にも関係している。単に「知情意」の一部なのではなく、心が作り出した「私」の大切な機能だと考えられる。
私たちは人を愛する。異性を愛し、子供を愛し、人類を愛し、大自然を愛す。もちろん、自分も愛する。なんのためにそんなことをするのだろうか?愛とは何なのだろうか?
ドーキンス(「利己的な遺伝子」ドーキンス(科学選書))は、人間の営みはすべて利己的な遺伝子の仕業だと考えた。つまり、人は遺伝子の乗り物に過ぎず、人のあらゆる営みは、自分たちの子孫を存続しようとたくらむ遺伝子に操られた結果に過ぎないというのだ。単純化していえば、人が生きるのは子孫繁栄のため、子孫繁栄は種の保存、すなわち、遺伝子の持続のため、ということになる。当然、愛、というクオリアも、遺伝子が作り出した概念、ということになるのだろう。
フロイトは、あらゆる心理状態は、無意識下のリビドー(性衝動)に帰着できると考えた。つまり、人のあらゆる行動は、根源的には性欲に支配されているというのだ。種を保存し遺伝子を生き延びさせるために必要なのは子孫繁栄だから、確かにすべてを性に帰着できるような気もする。
「愛」も、異性を思う愛情と、子供を思う愛情の二つに帰着させることを考えてみれば、なんとなく納得がいく。あらゆる愛情はこのふたつで表現できるような気がする。大自然や神を愛する気持ちは、母に抱かれた感じ(親の愛への依存)に相通ずるものがあるし、大学の学生が巣立っていくときの喜びは子供の成長の喜びに相通ずるものがある。そして、異性も子どもも子孫繁栄に関連する。そう考えると、愛とは本来、子孫繁栄のためなのものなのか、という気がしてくる。

愛とは〈私〉のネットワークの再確認

しかし、子孫繁栄と遺伝子の存続にすべてを帰着させようという、今はやりの議論には、私はなにか胡散臭さを感じる。なんだか、うそっぽい。
私は、未来の子孫とか遺伝子とかには関係なく、リビドーにも関係なく、いま、ここにある自然や宇宙、ここにいる妻や子供たちを、もっと純粋に、素朴に、真摯に、愛しているんだよ、という気がする。「私」の中に存在している愛というクオリアは、もっと本質的に「私」の性質の一部であるような気がする。
私は、そんな直感は正しいと思う。つまり、ドーキンスやフロイトの主張とは違って、愛とは素朴に、〈私〉のネットワークの確認手段として心の中に生じた概念なのではないか、と思う。
つまり、こうだ。
異性や、親や、子など、あなたにとってかけがえのない人とのコミュニケーションは、あなたにとって最も大切な営みのひとつであるに違いない。これはなにかというと、大切な人とのコミュニケーションの結果、大切な人とのインタラクションの内部モデルをあなたの脳内に構築するということだ。
コミュニケーションしている相手の人はこう考えているに違いない、と類推するための内部モデルが脳内にあることを、『人間は「心の理論」を持つ』という。「心の理論」という他人の行動や言動の内部モデルを使って、〈私〉や「私」は世界とインタラクションしている。
〈私〉や「私」と世界とのインタラクションが性的である必然性はない。様々な形でのコミュニケーションがとれればいい。それに、遺伝子に頼らなくても永遠だ。なぜなら、同じ〈私〉が世界中に星の数ほどもあるのだから。
インタラクションの結果、私たちが、異性や子どもや他人や外部世界を愛するということは、それらの内部モデルを愛するということに他ならない。これは、他人の中にも〈私〉がいることを発見するとともに、自分の中にある〈私〉と他人の〈私〉が同じであることをかいま見たことの安堵感なのではないだろうか。
生物はまとまりを作り出すシステムだといわれる。原始生物は自己組織化によって形作られたし、神経はよく使われるほどよく発火する。神経はまとまって発火するときに意味や記憶を形成し、協調的な情報処理を行なう。視覚の錯覚は脳がそうであって欲しいと思う方向にゆがめられた結果だし、聴覚や触覚にも同様な錯覚が知られている。人は他人と協調しているときに安堵するし、物事に意味や価値というまとまりを見つけようとする。価値を共有する社会では人々は同じような考えを持つ。作り出されたまとまり自体が生物や生物社会そのものだといってもいい。
〈私〉が世の中にたくさん散らばっているとき、それらはやはり生命の原理に従い、まとまりを作り出すことを目指す。〈私〉のネットワーク作り。そのために作り出された仕掛けのひとつが、愛なのだ。つまり、誰の心の中にもある〈私〉は、皆、ひとりではない、ということを感じるために、自己組織的に、ボトムアップに作り出された概念が、愛なのだ。〈私〉のネットワークを実感し安堵したいという心の叫びによって。
〈私〉たちは、みんな、純粋に、仲間だ。そして、〈私〉たちは愛によってつながっている。〈私〉たちはひとりではない。

真・善・美とは何か?

 話はそれるが、愛のついでに真・善・美についても述べよう。真・善・美も、愛と同じく、物理世界には単独で存在しない。だから、これらも、人間の心が作り出した概念であることは間違いない。
 いや、宇宙の根本原理のように物理現象の真理・真実というのは存在する、という人もおられるだろう。ここでは、そうではなく、数学でいう真偽の真、つまり、正しいか正しくないか、という概念のことを考えてみたい。
それから、善は、良いか、悪いか。
そして、美は、美しいか、醜いか。
これらは哲学の研究対象だということになっているが、私もこれらにとても興味がある。愛と同じく、直感的に、「私」の中にある重要な何かだという気がする。このため、私は、真とは何かを知りたくて科学技術に携わっている。善とは何かを知りたくて、最近は倫理について教えている。美とは何かを知りたくて、趣味で絵を描くし、大学で盆栽や人の歩行の美しさの研究をしたこともある。
しかし、これらは心が作りだしたものだから、何が真か、何が善か、何が美か、という問いには絶対的な正解はない。
正しいと思っていたことが正しくなくなることは、歴史をひもとけばいくらでもある。良いと思っていたことが良くないことになることもある。戦争や紛争を見れば明らかだ。戦う者は、どちらも、自分たちの方が真であり善であると考えている。価値は相対的で、正解がないから、世界中で戦争や紛争が絶えないのだ。
美しさも普遍的ではない。日本では昔はおたふくが美人だったが、今は西洋風の顔が美人ということになっている。つまり、真に美しいものなどない。やはり、価値は相対的だ。
これらは心の中の意味記憶によって、環境という文脈の中で定義されたものだ。真・善・美についての考え方がいくら多様だろうと、これらは心が作り出したものだ。
では、なぜ、心は真・善・美という概念を生み出したのだろうか?
やはり、そうであると都合がいいようなまとまりを、心がボトムアップにみつけ出した結果なのだと考えられる。
愛のところで述べたように、生物はまとまりを生成しようとするシステムだから、形成されたまとまりが、真であり善であり美であるということに過ぎないのだと思う。
視覚の錯覚と似ている。錯覚は、そうであったら都合がいいように見えてしまう現象だ。同じように、それが真であったら自分や社会にとって都合がいい、それが善であったら自分や社会にとって都合がいい、それが美であったら自分や社会にとって都合がいい、という原理によって、小びとたちの多数決で形成された概念が真・善・美なのだ。
人間の意識である「私」は受動的なのに、あたかも主体的な存在であるかのように錯覚しているのだった。同じように、人間の価値規範である真・善・美は相対的なのに、あたかも絶対的なものであるかのように錯覚している。錯覚とは言わないまでも、それぞれの人ごとあるいは社会ごとに価値基準を決めて、それにしたがっている。
主体的であると錯覚している「私」たちが、真・善・美は絶対的なものであるかのように錯覚する、というのは結果的にまとまりを自己組織化する生物の原理から考えて、もっともな気がする。トップダウンに自分を支配する「私」がいるのではないのと同じように、トップダウンにこれが真、これが善、これが美、と与えられているのではない。小びとたちの多数決によって、ボトムアップに自分なりの真・善・美を決めていくのだ。人の社会といっしょだ。
家族、学校、地域、会社、政党、学会、宗教、国家など、人は様々な大きさの社会を持ち、その社会の中での真・善・美の規範をきめている。あなたの小びとたちはこれと同じことをやっている。生物の原理は個体レベルでも群レベルでも同じようなものだから、心の社会は実社会の縮図であり、人間たちがやることと、小びとたちがやることは大差ないということだ。
そして、その作用は愛と似ている。人と人とのつながり、結局は、〈私〉と〈私〉とのつながりを再確認して安堵したいがために作り出された概念なのだ。
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Takashi Maeno

Author:Takashi Maeno
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(慶應SDM)ヒューマンシステムデザイン研究室教授
慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長兼務
前野隆司

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