書家の嶋田彩綜先生に、作品制作のための書き方のご指導をしていただきました。先生の言葉集。
「手で書いてはいけません。(立って書くとき)丹田の動きが膝から筆へと伝わるように」
「丹田から自由に出て来る自分のエネルギーを書にする。自分を信じて」
「二度と同じ作品はない。前にうまく行ったから同じようにしようという気持ちは捨てて。形を良くしようとしてはいけません。形のことは忘れ切る」
「前野さん、わかりますか?」
「はい。わかりますが、できません」(笑)
「わかるとは、さすがです」
できないけど論理としてはわかる理由は、他で経験しているから。ほんと、わかります。今回の気づきは、本質を頭で理解できたと思えても、違う分野になるとすぐには体で実行できないということ(あたりまえですけどね)。
とはいえ、本質はとっても似ているんですよ。
たとえば、僕が研究指導の時に学生に言っていること。
「審査の先生の質問に答えることが目的ではない。本当にやりたいことを成し遂げて、伝えよう」
「他人の言葉に振り回されるな。自分を信じて」
「全ての研究は違う。他の研究の型を真似してはだめ。それぞれ異なるから。自分の形を作れ」
あるいは、華道、茶道、能、ダンス、その他すべての芸術でも同じ。
かつてコンテンポラリーダンスの師匠、故黒澤美香先生にも言われたものです。
「形を作ろうとしてはだめ。無意識から出てくる形に従う。それがアート」
「真剣に。作ろうとしてはだめ。自分の中から出て来るものを感じて」
「時々、ほんのたまに、中から出てきたものが場と一体化する至福の時がある。これがダンス」
仏道も同じ。
悟りとは語り得るものではありません。主体的な経験ですから。
悟ろうとして悟れるものではありません。それを超越していますから。
確かに、すべての学びは、「教えないとわからない」、しかし「教えると、本質はわからない」という自己矛盾なんですよね〜。
要するに、教育とは、どこまでわかって、どこからはわからないかということを、早めに気づかせるパスに過ぎない。
ある研究をしている教え子兼親友とも同じ話をしました。語り得ないことを、研究としていかに伝えるか。これはむずかしい。しかし、不立文字と言い切ってしまうとコミュニティー以外には伝わらない。だから、どこまで伝わって、どこからは伝わらないかを、明確化してみるのが研究というアプローチなのではないか。
言葉では伝えきれないことについて、深く考えたり感じたりすることのできた日々でした。充実。日々是好日(にちにちこれこうじつ)。
つづく。
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