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新型コロナの倫理問題

外出自主規制をして新型コロナの蔓延を防ぎ、図1の破線ではなく実践のように拡散を抑制しましょうという議論をよく目にする。確かに、ピークが大きくなると医療崩壊の危険があるから、ピークを小さくすべきである。

しかし、前から気になっていたのは、なぜ図2ではないんだろうかということ。

図1は、集中的にコロナにかかる人は減らすけれども、結果的にかかる人の総数は変わらないように誘導するということも表しているように見て取れる。

一方、図2は、かかる人自体をへらして、しかも早く収束させるという意図がある場合。
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違いは、罹患者数や死者数の違いである。

もちろん、図1にすべきだという理由はわかる。上に書いたように、ピークを減らしたいということ。それから、集団免疫のためにはある程度の人がかかるべきであるという立場。

しかし、「集団免疫のためにはある程度の人はかかるべきである」というのは、「一度に死ぬのは困るけど、ゆっくり死ぬのはOK」ということでもある。もちろん、図1の実践だと医療崩壊にはなりにくいので医療崩壊による死は減少するであろうが、罹患して死ぬ人を最小限にする図2とはあくまで考え方が異なる。

これは倫理学の問いである。

完全に外出を規制して図2のようにすると罹患者数や死者数は最小になるが、一方で産業も打撃を受け失業者や自殺者が増加してしまうことが過去の想定外のときのデータから予想できる。つまり、図2はコロナの罹患者・死者だけのことを考えているのであって、日本や世界の経済も加味して考えると図1の方が良いと考えるのが図1の立場であろう。

つまり、図1には「産業への影響も考えるとトータル罹患者数が破線と違わないのは止むを得ない」という考えが含まれていると考えるべきである。日本政府がもっと厳格な外出制限をしないのは、欧米に比べて蔓延の度合いが緩やかだから、産業や経済への影響も加味して、多少の増加は容認するという政治判断の結果だと考えるべきではないだろうか。

私は、図2の方がいいと言いたいのではない。図1と図2がありえると考えることによって、唯一絶対解のない応用倫理問題として、この問題を俯瞰的に考えるべきだという視点を提示したいということなのである。言い換えれば、マクロに全体最適を考える政府や医療者の立場と、ミクロに自分の身を守るという一市民の立場では、当然、見方・考え方も違ってくるはずであり、各人は各人の立場・状況に応じて総合的な倫理的判断をすべきなのである。

みなさんはどのように考えますか?

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プロフィール

Takashi Maeno

Author:Takashi Maeno
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(慶應SDM)ヒューマンシステムデザイン研究室教授
慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長兼務
前野隆司

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