内田さん曰く「“サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです」
まあ、わかりますが、でも、サルに対して失礼ですよね。サルにもいろいろいますが、それぞれ、進化の結果、環境に適応して生きています。彼らは「今さえ良ければそれでいい」という発想はしていない。そもそも人間のような言語を持たないし、過去と未来に対する認識も人間とは異なるので、サル化という表現自体、文学的表現であり、ここに対して突っ込む必要はないのでしょうけど(笑)。。。ただ、ダイバーシティー&インクルージョンの立場から見ると、サルを差別する人は、人の多様性に対しても差別をする人なのではないか、というあらぬ誤解を招く表現ではないかなあ、とも思いました。たぶん、未来から見ると、表現が下品と言われることが想像できます。
たとえば、仏教では、今ここに集中することを念(マインドフルネス)といいます。極論すれば、「今さえよければそれでいい」。そしてその考えは現在注目を集めています。
最近流行りの、フレデリック・ラルーのティール組織や、ロバート・キーガンの成人発達理論においても、ティールやその先のターコイズという人格発達段階は、やはり今を楽しむ境地です。こちらも、極論すれば「今さえよければそれでいい」。
したがって、「今さえよければそれでいい」という思考形態の是非については吟味する余地があると感じた次第です。
「今さえよければそれでいい」を吟味するにあたって重要な論点は『ティール組織』(英治出版)の言葉で述べるなら、
「レッド」と「ティール」は似て非なるもの
という点ではないかと僕は思います。
本稿はティール組織について詳説することが目的ではないですが、説明するためにわかりやすいと思うのでティール組織について簡単に説明すると、まず、ティールとは色です。以下のように、組織はレッドからティールに向けて進化していくのではないか、というのが『ティール組織』における組織論です(なお、誤解はないと思いますが、念のため断っておきます。ラルーさんや内田さんのいう「進化」は進化生物学における進化のことではなく、劇的な変化という意味の文学的表現です。本稿のタイトルにある進化・退化も、もちろん、人間が別の種に進化することについて議論しているのではなく、劇的に進歩しているのか、後退しているのか、について述べているものです)。
レッド組織 みんなが自分勝手にやっている状態。つまり、狼の群れや、幼稚園児の群れ。
アンバー組織 軍隊や、厳しい幼稚園のように、統率としつけを第一とする組織
オレンジ組織 多くの大企業のように、合理性を第一優先する組織
グリーン組織 古き良き日本の家族経営のように、人の心のつながりや、尊敬・信頼を大切にする人間的な組織。
ティール組織 例えるなら自然林のように、統率するリーダーはいなくて、みんな思い思いにやっているのに、全体としては繁栄している、生物型の組織
もちろん、レッドからティールまでは人間の心の発達状態についてのロバート・キーガンやケン・ウィルバーの理論に基づいています。つまり、ティールに近づくほど成熟度の高い人たちが作る、成熟した組織、というわけです。
ここで面白いのは、レッド組織とティール組織は一見似ている点です。どちらも、自然に身を任せている。
ラルーは、レッド組織は狼の群れのような組織だと言いました。しかし、これは狼に対して失礼だと思います。さっきの、サルに対する失礼と似ていますね。僕は狼の群れを見たことがありませんが、たぶん、進化の結果、環境に適応して生きていたのだと思います。彼らは単に自分勝手に生きていたのではない。適切に秩序を保ち、コミュニティーを形成していたのだと思います。でないと、生物として生き延びられない。ティール的だったかもしれませよね。
だから、僕は、自分で説明をするときには「レッド組織は幼稚園児の群れ」「アンバー組織はしつけ第一の幼稚園」という例えを用いるようにしています。それは幼稚園児に対して失礼だ、というご指摘もあるかもしれませんが、子供は発達心理学的に見て、もちろん大人よりも優れた面もあるものの、社会生活を営むという点においては未熟です。これは未来から見ても表現が下品とは言われないのではないかと想像しています(いやあ、22世紀になると。21世紀は幼児に対する偏見に満ちた言い方がはびこっていた、と言われるようになるかもしれませんけどね。もちろん、サルと狼に対しても)。
仏教の十牛図とも似ていますよね。牛飼いについての10枚の図。たとえば、こちら(
https://biz.trans-suite.jp/27101)にあります。

第一図:牛を尋ね探す「尋牛(じんぎゅう)」
第二図:牛の足跡を見つける「見跡(けんぜき/けんせき)」
第三図:牛を見つける「見牛(けんぎゅう)」
第四図:牛を捕まえる「得牛(とくぎゅう)」
第五図:牛を飼いならす「牧牛(ぼくぎゅう)」
第六図:牛に乗って家に帰る「騎牛帰家(きぎゅうきけ)」
第七図:あるがままに生きる「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」
第八図:空白となる「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)」
第九図:本源に還る「返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)」
第十図:人の世に生きる「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」
これは禅宗における「悟り」という観点からの人の心の変化をアナロジーとして表したものです。牛は悟りを表します。いわば仏教的成人発達理論ですね。つまり、牛を探し始める(悟りを得たいと考え始める)ところから、悟りの境地に至るまでの道筋が描かれています。キーガンやウィルバーも東洋思想の影響を受けているのでしょうから、彼らの成人発達理論が禅宗の悟りへの心の変化と似ているのは当然というべきでしょう。
どう似ているかというと、牛を捕まえ飼いならすあたりがアンバーからオレンジですよね。そして、あるがままに生きるあたりがティールでしょうか。あるがままですから、「今さえよければそれでいい」にも似ていそうです。そして、本源に帰るあたりがターコイズ。最後の第十図では、悟りへの旅を終え、また普通の世の中で暮らすとあります。
今回の主題に即して述べるなら、要するに牛を探し始めるよりももっと前にレッドの状態があり、悟りへの旅の途中に、レッドとよく似た「あるがままに生きる」(忘牛存人)がある点が、興味深い点です。忘牛存人、つまり、牛を忘れ人としての自然な有様に戻る、ということですから、幼稚園児の群れに似ています。
つまり、やはり、レッドとティールは似ているのです。
で、人類がレッド化しているのだったら、確かに退化というべきかもしれない。しかし、オレンジやグリーンからティールに、あるいは、牛を探し始めたところから忘牛存人まで達したのだったら、進化というべきかもしれない。だから、人類が退化しているのか、退化しているのか、という判断はもう少し見守ってみないと結論はわからないのではないか、というのが本稿の趣旨です。
で、僕の意見は、これが現代社会の面白くてややこしいところですが、退化と進化、レッドとティール、「今さえ良ければそれでいい」と「大人としてのありのまま」が思いっきり混在しているのではないか、ということです。進化(進化生物学における本当の進化)でいうと、カンブリア爆発。ものすごく多様なものが出てきて、この先どっちにいくかは紙一重、みたいな。複雑系の科学でいうと、エッジ・オブ・カオス(カオスの淵)の時代だと思います。最近の経営者や学者や有名人には、国内外問わず、進化しているんだか退化しているんだかよくわからない人がたくさん出てきています。いや、彼らは進化したティール型かもしれません。でも、その周りにいる人々は、ティールとレッドとその間の人がまぜこぜな気がします。トランプもそうですね。とんでもなく、現代を近代に、そして中世にまで巻き戻した人のようにも見えますが、ものすごく新しい面もある。僕の周りにも、現代諸相を呈する様々な人々がいます。「ありのまま」を重視する人が少なくないですが、レッドとティールが入り混じっている。ティールのつもりでレッドな人も少なくない。つまり、一昔前、人々はオレンジとグリーンにぎゅーっと集まっていたのに、最近は、一部の人がレッド化し、別の一部の人がティール化したのではないか。つまり、一部の退化と一部の進化が並行して進んでいるのではないか。そういう問題意識を僕は持っていたので、内田さんの文章は気になったのです。
言い換えると、「子供」(レッド)と「いろいろ経験した大人が進化してありのままでいる状態」(ティール)は似て非なるものである、ということ。で「今ここ」を大切にする人々の中にも、レッドな人とティールな人がまざっているということ。社会が”サル化”すると言ってしまうと、両者をひっくるめてしまうので、不要な反論(僕のような)を招いてしまうのではないかということ。
さらにもう一つ言いたいこと。現代社会が難しく面白いところは、レッドみたいな人がうまく行っちゃったりするということ。40年くらい前は、よく勉強して、よく考えて、みんなで力を合わせて、きちんと製品やサービスを作るのがビジネスの勝ちパターンだった。しかし、インターネット化、グローバル化、AIとITCの進展によって、知恵さえあれば莫大な成功が可能な時代がやってきた。よって、ほとんどの人にとっての正論が、一部の成功者にとっては正論でない時代がやってきた。こういう時代は、レッドっぽくやっている人が大成功したりする。しかも、成功したり苦労したりすると人間は成長するので、意外とレッドっぽいようなティールっぽいような、はたまたターコイズっぽいような人も、現代社会ではどんどん出現しているということ。変化の時代には、過去の価値観で人を判断すると見誤りますよね。
つまり、”サル化”しているようで、進化している人が、けっこう出現しているということ。いや、そもそも”サル化”こそが進化かもしれない。
さっきすこしだけ引用した複雑系の科学によると、初期値がほんの少し(たとえばほんの0.000001%)違っていると、未来は思いっきり違うことが知られています。だから、カンブリア爆発的な現代において、誰がレッドで誰がティールか、実は、未来になってみないとわからないんじゃないかなあ、と思います。人類が退化しているのか進化しているのかも。
僕の言動も、75億人のうちの一つだから、世界から見るとものすごく小さい。しかし、複雑系の科学によると、僕のほんの少しの言動の違いが、未来を劇的に変えることが数学的に証明されています。バタフライ効果。だから、こうして思ったことを表明している次第です。あなたはどう思いますか? 人類は退化しているのか? 進化しているのか? あなたはどっちなのか? あなたの言動が、世界を変えるのです! あなたは、蝶か、牛か、はたまたサルか? それは、未来の人が決めることなのです。ああ、今って面白い。今さえ良ければそれでいい!
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