2019年9月、『ティール組織』の著者フレデリック・ラルー氏が来日した。私は運良く9/13の講演会のみ参加できたのだが、9/14に500人が集まった講演会で、ラルー氏が以下のように述べたことが話題になっている。
「あなたが目的(purpose)を発見するのではなく、目的があなたを発見するのだ」と。目的は、用意のできている人のところに降りてくるのだという。
これについて考えを述べたい。基本的な方向性には賛成なのだが、スピリチュアルではなく、論理的・科学的な解釈を述べたいと思う。
まず、論理的・科学的に見ると、目的は生物ではないので、「目的をあなたが発見するのではなく、目的があなたを発見する」という文章自体が矛盾であるように思える。たしかに、この文章は論理的な文章というよりも詩的な文章というべきであろう。ただし、詩を解釈するときと同様に、以下のように補足をすると理解できる。
「人間の心の認知というものは、目的を自分で発見するといった能動的なメカニズムに基づいて形成されていると考えられがちだが、あたかも目的が自分を発見したかのように自分を捉える受動的メカニズムによって成り立っていると考える方が妥当なのではないか」
(つまり、人間の意識が何かを決定すると考えるよりも、脳と身体の無意識的な自律分散的メカニズムと外部世界とのインタラクションの複雑な偶然にあらゆる選択は委ねられていると考えるべきではないか)
あるいは、
「人間の心というのは、目的を自分で発見しにいこうとする仮説検証思考で考える時よりも、目的が自分を発見すると捉えるくらいにオープンで自由な状態でいるときに最もイノベーティブかつ創造的であるので、目的を見つけるような創発的な問題解決の場合には後者の方が有効である」
(要するに、何かに集中して着目しているときはイノベーティブではなく、ルーチン課題解決モードである。一方、目的や合理的判断(や、いわるる狭い意味での「べき」思考)は手放し、リラックスしてフロー・ゾーンに入っているとき(前者とは異なる、マインドフルな集中をしているとき)に人は最もイノベーティブである)
前者は受動意識仮説。拙著『脳はなぜ「心」を作ったのか』に詳しく書いたので読んでみていただきたい。後者はイノベーション論。拙著『システム×デザイン思考で世界を変える』参照。ラルーの『ティール組織』も拙著『幸せの日本論』『思考脳力のつくり方』で書いたことの別バージョンだと思う。ちょっと著書の宣伝のように見えるかもしれないがそうではない。ティール組織のフレデリック・ラルーも、サピエンス全史のユヴァル・ノア・ハラリも、世界をGlobal(地球的)な全体として、歴史を人類史全体としてみようとしている点で共通している。そういう時代なのである。大きな変化をとらえるべき時代。
なぜ、ラルーやハラリのようなスケールの大きい物語が流行るのか。
個人主義(個の独立を重視する世界観。悪く言えば、自分のことばかり考える主義)だけでは世界は立ち行かないことが明確になった現代社会において、ホリスティックな見方が注目を集めているということなのではないか。
実はこれはいまに始まったことではない。むしろ既視感のあるムーブメントである。
印象派画家への浮世絵の影響(遠近法や写実主義を超えた主観的な描き方への注目)や、ポストモダン建築への日本の影響、ポストモダン哲学やニューエイジカルチャーへの仏教(たとえば鈴木大拙)の影響など、歴史的に、近代西洋型の合理的なやり方が行き詰まったときに、東洋・日本(ないしは古代)に注目した者が西洋で注目される(そして、日本はそこに注目する)ということが何度も繰り返されてきた。
今回もそれの再来である。ラルーのティール組織は、もともとケン・ウィルバーや、もっとたどればマズローやアドラーやユングが、東洋・日本からの影響も受けたことに端を発する。
だから、日本の研究者から見ると、「いやいや、そんなことは前から我々が考えていたことであって、その表層だけをすくってあたかも新しいことかのようにいわないでください」と言いたくもなる。しかし、謙虚に考えると、表層的な面もなきにしもあらずとはいえ、東洋のホリスティックなありかたが西洋に理解されるばかりか、西洋流の論理的・合理的な考え方によって整理されたからこそ世界に環流するという意味では、とてもありがたいことだと思う。
東洋の深遠な思想が世界に理解され尽くされるまで、環流の既視感は繰り返すのだろう、なんてふと思う。人類が愛しい。
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