FC2ブログ

Entries

べき論(ねばならない)は避けるべきか?

最近「べき論(ねばならない)は避けるべき」という主張をよく見かける。先日も、「みんなが幸せな世界を創るべき」と主張したら、「べき論では問題は解決できない」という批判を受けた。しかし、そうだろうか?

「我々は何をすべきか?」は、言わずと知れた、倫理学の根本命題である。すなわち、哲学が「〇〇とは何であるか?」という問いを追求するのに対して、倫理学は「私たちは〇〇すべきか」という「価値」についての問いの根本的な意味を追求する。「賄賂、隠蔽、捏造などの不正をなくすためにどうすべきか(予防倫理)」「医療技術・バイオ技術はどこまで許されるべきか(生命倫理)」「科学技術と環境保護の関係はどうあるべきか(環境倫理)」などである。つまり、倫理学とは、価値についての学問である。

一方で、べき論を避けるべき、という議論は、「私は〇〇すべき」という「ねばならない」型の価値観に心が囚われすぎるべきではない、という意見の表明であって、「べき」の根本を問う倫理学とはレイヤーが異なる。すなわち、「私はこの仕事を明日までに終えるべき」「人は礼儀正しくあるべき」などのべき論に接したときに、本当に他の何よりも仕事を明日までに終えることや、礼儀正しくあることを優先すべきか、ということを根本的によく考えるべき、という意味である。つまり、レイヤーの低い偏狭な価値に囚われすぎず、よりレイヤーの高い価値についてもよく考えて意思決定や行動をしましょう、という意味である。価値の問題を考えること自体をやめるべき、という議論ではなく、レイヤーの高い根本的な価値まで考慮しましょう、という意味である。(ちなみに、「べき論を避けるべき」という価値観自体がトートロジーに陥っている点が興味深い。)

では、もっともレイヤーの高いべき論とは何か?

答えはもちろん、倫理学としての、根本的な「べき」についての問いを立てるべき、ということなのであるが、では、「べき」の学問である倫理学における最も根本的な問いはなんであろうか。

「私たちはいかにして幸せに生きるべきか」ではないだろうか。

もちろん、私は「私たちは幸せに生きるべき」だと考える。

ここで議論があるとすれば、「私たち」の範囲は「味方」までであって「敵」は入らないと考えるべきか、世界中の生きとし生けるものまで含めて「私たち」というべきか、という議論であろう。これはイデオロギーや宗教観の議論であるということもできる。一神教的な価値観では敵と味方を分断する傾向があるが、大乗仏教的な世界観では世界中の生きとし生けるものを慈悲の対象に含める傾向が強いのではないかと思う。したがって、「私たちは幸せに生きるべき」という議論は、世界を二分してしまう危険がある。その点を除けば、「誰もが幸せになるべき」に反論する者は少ないのではないだろうか。だから、私たちは、価値について考えるとき、なるべくレイヤーの高い価値まで思考の枠を広げて考えるべきだと思うのである。

というわけで、「べき論」は避けるべきか? について述べてきた。まとめると、レイヤーの低い「べき論」に留まるのは避けるべきだが、倫理学としての根本的な「べき」は大いに問うべき、というのが私の考えである。そして、私が今最も追求したい課題は、「生きとし生けるものはみんな幸せになるべき」という、ある面では当然に思える命題を、いかにすれば私たち人類の大多数が心の底から願えるようになるのか、という課題である。

自分とみんなへの愛

スポンサーサイト



この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://takashimaeno.blog.fc2.com/tb.php/498-8093d60c

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

最新記事

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR