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なぜ私は幸せの研究をしているのか?

なぜ私は幸せの研究をしているのか?

よく誤解を受けます。前野さんはハッピー・プロフェッサーだよねー。幸せな人だねー。

貧困とか、環境問題とか、技術競争とか、政治問題とか、切実な問題が社会にはたくさんあるのに、心の幸せという”ふわふわ”した問題を対象にしていて、なんだか幸せそうで、お気楽だよねー。

という、誤解。

いやいや、やめてください。その誤解。その、切実問題とお気楽問題という、安易な直感に基づく対比。

二項対立図式ではなく、包含関係です。お気楽問題ではなく、超切実鞠躬課題解決への挑戦です。

一般に、現実主義と理想主義は、二項対立図式で語られるように思います。現実を理解しない理想主義は机上の空論だよね。憲法9条を守れという理想論では、国を守るという現実的な問題に対処できないではないか。理想主義の代表である共産主義はもはや敗北したのだ。現実主義が勝利したのだ。

スライド1

確かに、現実的でない理想主義は、単なる机上の空論というべきかもしれません。

しかし、机上の空論を排除するつもりで、本当に目指すべき理想を排除していないでしょうか。

僕は、理想主義と現実主義は、対立するものではなく、包含関係だと思います。理想があってこその、現実。

スライド2

理想のない現実主義は本質的な方向を見誤ります。現実性のない理想主義が机上の空論に陥るのと同様に。つまり、現実主義を包み込むように、現実性のある理想主義があるべきなのです。

「すべての生きとし生けるものは幸せになるべき」というのは理想論ですが、これは、すべての人が(現実主義者も)目指すべき理想だと僕は思います。

幸福学は、”ふわふわ”しているのではなく、現実主義を包含しているのです。「幸せになろうよ」だけ聞くとかつてのニューエイジの Love & Peace のリバイバル版だと誤解する方もおられるかもしれませんが、幸福学は現実性のない理想主義ではありません。統計学的エビデンスに基づいているのです。

また、貧困問題も、環境問題も、技術格差の問題も、政治の問題も、すべて、そのメタ目的は、人々の幸せです。すべての切実な問題をもう一つマクロな視点から見ると、必ず幸福につながります。切実と”ふわふわ”の対比ではなく、具体と抽象、内側と外側の対比なのです。

もしも幸福学が”ふわふわ”しているように見える人がいるとしたら、具体と抽象、内側と外側の関係の明確化が不十分だからではないでしょうか。僕にはそれらの入れ子関係が明確に見えているから、なにも”ふわふわ”しているようには思えません。

「働き方改革は、従業員を幸せにするためではなくて、生産性や国力を向上するためなんだよ。幸せな働き方改革って、ピントが外れてるねー」という方がおられます。いやいやいや、生産性や国力を向上することの目的は、国民の幸せのためですし、従業員が幸せになると生産性も創造性も向上するというエビデンスがあります。だから幸せの問題は、国力向上をマクロに包含する視点でもあるし、ミクロには個人の生産性・創造性向上のキーでもあります。従来型の問題解決に、ミクロにも、マクロにも関係しているのです。何か問題を見誤って別個の問題に囚われているのではありません。むしろ、俯瞰的な視点から、全体問題解決のために幸せという新たな変数を導入するという提案なのです。新しい視点を取り入れたことによる新たな全体構造の受け入れを躊躇する人にはもしかしたら分かりにくいのかもしれません。幸福学研究をする側も、このような全体構造を明確に伝える努力を続けないと、この新しい構造の意図や意義が伝わらず、なにか”ふわふわ”した研究と誤解されてしまうということなのかもしれませんね。繰り返しになりますが、まとめると、働き方改革に個人の幸せという視点を取り入れることは、ミクロには個人レベルでの幸福度向上につながる上、マクロには組織の生産性や創造性の向上にもつながります。幸福という視点を取り入れなかった時に陥りがちな、過度な効率化、合理化、ピラミッド組織化とブラック企業化を防止する新たな全体システム構造です。このように、問題をシステムとして捉える際に、幸せという視点が重要になるからこそ、幸福経営学がという見方を提唱しているのです。

「前野さんは最近スピリチュアルな発言をするようになった」という方がおられます。いやいや、僕はスピリチュアルに対しては中立な立場を貫いており、全く身に覚えがありません。もしかしたら、「自分の全てを愛し、世界中のすべての人を愛すべきだ」というような発言がスピリチュアルに聞こえるのでしょうか。そもそもスピリチュアリティーとは精神性という意味で、なにもあやしいニュアンスは本来ないのですが、ここでは仮に、なにか科学で解明できないあやしいもの、という現代日本カルチャー流の意味でスピリチュアルという言葉を捉えることにしましょう。さて、私が「自分の全てを愛し、世界中のすべての人を愛すべきだ」と発言する時、それは、哲学や宗教や思想から言っているのではありません。科学です。自己肯定感、自己受容、自尊感情、自己有用感、自己有能感が高い人は幸せであるということが学術研究により知られています。要するに、自分を愛する人は幸せなのです。また、利他的で、親切で、慈悲の心を持ち、他人のために尽くすことは、幸せのための重要な要因であることが、やはり学術研究により知られています。つまり、他人を愛する人は幸せなのです。また、紛争解決学の知見を待つまでもなく、他人と争ったり憎んだり憤ったりするよりも、調和的・協生的に生きる方が幸せです。よって、もしも可能ならば、愛する範囲を仲間から全世界に拡大し、世界中の生きとし生ける人を愛することは大きな幸せに繋がります。これらをまとめると、「自分の全てを愛し、世界中のすべての人を愛すべきだ」ということになるのです。まったくあやしくなく、完全に科学的なエビデンスからの演繹です。また、「自分の全てを愛し、世界中のすべての人を愛す」人が増えれば世界平和が実現できます。現実主義者による「目には目を」の報復合戦では、均衡を保てるだけで、世界平和は訪れません。先ほどの働き方改革の時と同じ全体構造になっています。ミクロには個人の幸せを、マクロには(先ほどは組織全体の繁栄でしたが)世界人類の平和と繁栄を、両立的に目指すためのグローバル人類システム構造の提案なのです。もちろん、科学的エビデンスからの演繹としての。まったく”ふわふわ”なんかしていません。あやしくもありません。論理です。システムデザイン・マネジメントです。

以上、幸福学は決して”ふわふわ”した学問ではないことの説明でした。私はハッピーだからお気楽にこの研究をしているのではありません。人類にとって必要な研究だと大真面目に考えるからしているのです。もちろん、副次効果として私自身がハッピーになったことは告白します(笑)。科学的エビデンスからの演繹としてとはいえ、世界中の人々の幸せを心から願う時、私は幸せです。

宮沢賢治は、世界中の人が幸せにならないうちは、自分は幸せではないと言いました。彼の発言は宗教に基づいていますが、私は科学的な立場から、同様な結論に至りました。エビデンスからの演繹として、つまり、現実的な理想論として、世界全体システムの平和のためには「世界中の人が、自分と、世界中の人を愛するべきである」ということが導かれる以上、それが達成されない限り人類に真の幸せはないと考えるからです。だからこそ、簡単ではない目標かもしれませんが、人類はそれを目指すべきだと思うのです。簡単ではないと書きましたが、見方を変えると簡単です。いまあなたがここに、世界中の生きとし生けるものを愛そうと思えば、そこから理想の実現は始まるのですから。It’s easy if you try.(John Lennon の Imagine の歌詞より)。

みんなは私のことを理想主義者だというかもしれません。しかし、私だけではないはずです。私は願っています。いつかみんなも合流し、世界が一つになる日が来ることを。
You may say I'm a dreamer. But I am not the only one. I hope someday you’ll join us and the world will be as one.(John Lennon の Imagine の歌詞より)
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