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永遠平和のために(カントとアインシュタインとジョン・レノンに賛同します)

国民の過半数が反対しているにも関わらず、安倍首相は集団的自衛権を容認しようとしています。イデオロギーとしてではなく、システム論として、この問題について考えてみたいと思います。

「友達は自分を守ってくれているのに、友達が困っているときに助けられないのは卑怯ではないか」あるいは「他人に決められた不自然な足かせではないか」という人がいます。

たしかに、友達に守ってもらっていながら、「自分は平和という決まりを決めたから(あるいは、他人に決められた決まりがあるから)他人が困っていても暴力は振るわない(振るえない)」と言うのは通らない気もします。原子力発電はやめておきながら、他の国が原子力で発電した電気を買っている国と同じように、枠の中だけ理想化しようとする試みは枠の外から見ると視野が狭い自分勝手にも見えます。だから、友達も守ってやりたい、という男気のようなものはよくわかります。あるいは、普通の人になりたい、というのもわかります。

しかし、もっと対象システムの範囲を広げた視野の広い議論をすると、問題の見え方が変わってくるのではないでしょうか。

そもそも平和とは何でしょう。戦争のない世界です。戦争のない世界のためにベストなやり方は何でしょう。理想的には、各国が軍を持たず、世界連邦のような全体主権者だけが軍を持つ、争いの起こりにくい世界ではないでしょうか。もちろん、すぐに実現することは困難です。だから、各国は軍を持って自衛し現実的な均衡を保たざるを得ない。しかし、世界のすべての人のための理想は(あくまで理想ですが)、各国が軍を持たない世界だと思うのです。

カントが1795年に書いた『永遠平和のために』や、アインシュタインらが参加して1946年に始まった「世界連邦政府のための世界運動」も同じ趣旨です。各国の軍備は全廃し、世界連邦政府のみが軍を持つべきである。そうすれば国家間紛争はなくなり、各国の活力も平和的活動に向けられます。つまり、紛争のためのコストを各国が払う必要がなくなる。その分、環境問題等のグローバルイシューの解決に向かう余力も出るというものです。この考え方は理想的すぎるという批判はあるでしょう。実際、残念ながらこの議論は現代社会では盛んではありません。しかし、まさに理想として人類がめざすべき唯一の方向はここなのではないかと私は思います。

たとえば、日本が戦乱の世であることを想像してみてください。神奈川県県は武器を持たないと決めていて、東京都に守ってもらう約束をしているとしたらどうでしょう。東京の人が困っているときに助けるために、神奈川も武器を持つべきでしょうか。それとも、神奈川だけは武器を持たないという理念を押し通すべきでしょうか。戦国の世の後に鎌倉や江戸の国家的統治があったように(というか、現代の常識であるように)、理想は、神奈川の姿を全国に拡大する努力をして、国家だけが軍を持つような統治形態を実現することではないでしょうか。

だから、集団的自衛権反対者は、「周りの人が死ぬのは嫌だ」「暴力行為に参加するのは嫌だ」「何が何でも戦争反対」のような局所的自己完結型理想主義を主張するのではなく、世界の理想の実験の場であることに胸を張って、堂々と、カントやアインシュタインと同じ大きな理想を主張すべきなのではないかと思うのです。日本とは、特区みたいなものです。歴史の偶然により、日本は世界でもまれな戦争放棄という理想を局所的に実現してみることのできる特区となった。もちろん、他国との同盟や力関係の結果として生じた特殊な状況ではあるのですが。特殊だからこそ、将来の世界平和のために我々の先進的特区を残すべきだ、カントやアインシュタインがなし得なかった運動のコアとなるべきだ、といった理想とセットで、集団的自衛権反対を主張すべきなのではないかと思うのです。もちろん、特区であるからには、責任重大です。力には力を、の論理よりも平和的解決の方が紛争解決の際に有効であることを粘り強く示すべきでしょうし、軍を持たないことの精神的幸福や、経済的繁栄や、他国との関係改善力等、あらゆる点でメリットがあることを諸外国に明確なメッセージとして示すべきだと思います。そして、世界連邦的な運動を世界の先頭に立って推進する国家になるべきだという主張をすべきだと思います。つまり、戦争は感情的にいやだから、怖いから、ではなく、そんな戦争のない理想社会を目指すために戦争の放棄が先進的な実験だからこそ、理念を持って、集団的自衛権反対を唱えるべきだと思うのです。

逆に、集団的自衛権推進者は、カント的理想を目指すための過渡的な措置として、現代の国家間関係に対処するためにそれが必要だというべきだと思います(実はかなりそれに近いことは言っているようにも思いますが、説明不足のために国民が疑っているというのが現状かもしれません)。

よろしいでしょうか。特殊な形とはいえ日本は世界の究極的理想に近づいているという立場から見ると、まわりも軍隊を持っているから私も、では(あるいは、そう勘違いされるようでは)、歴史の逆行だと思うのです。せっかく、歴史の偶然で手に入れた局所的な理想の実現。局所的でひずみが大きすぎるからまわりと同じにもどそう、ではなく、ひずみであることをはっきり自覚しつつ、大きなビジョンとともに各国に胸を張って説明するリーダーシップを果たすべきではないか。そう思うのです。

こう書くと私は集団的自衛権に反対だと思われれるかもしれませんが、そうでもありません。学者という中立的な立場の者として、イデオロギー的な立場を表明しませんが、この文章で述べたかったことは、集団的自衛権に賛成する人も反対する人も、世界をシステムとしてみたときに、世界平和のためにもっとも目指すべき遠い理想の目標は何か、を広い視点ではっきりと自覚した上で、現状についての議論をすべきだということです。そしてそうすることがもちろん国益にもかなうと思うのです。

カントとアインシュタインの大きな志に賛同します。そして、ジョン・レノンに。世界のすべての人の平和と幸福を願いつつ。

「想像してごらん。もしも国家がなかったならと。( Imagine there's no countries.)」(『イマジン』(ジョン・レノン)より)

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[C43] こんな考え方いかが?

「全体主権者だけが軍を持つ」一見良いアイディアのように見えますが、クーデターを起こされれば軍による独裁世界になりそうな気がします。軍事権力の一元化は危険だと思います。

こんなことを考えます。遠い昔おそらく人は、屋外で生活していた。
おそらく夜、寝るときも獣に食われる心配をした。
ただ家を建てることで、獣に食われる心配もなく眠れるようになった。
システム?が変われば、人の心のありようも変わる部分もあると思うのです。睡眠時における獣への恐怖という”不快“によって発動した”不快の解消”行動は“家”を持つことによって解消されたのですから、人は、他の”快”の追及に移行します。

私の考えは、すべての国が専守防衛を法とする。その法に背き他国へ侵攻した国に対しては、世界中のあらゆる国の軍が一斉に、その国の民間人を含むすべてをせん滅すべく行動を起こすことを国際法とする。

一見残酷極まりない人権無視のとんでもない悪法に見えます。

ただ世界相手に戦争できる国があるでしょうか?
他国に侵攻した瞬間、世界中の軍に自国民全体が皆殺しにされても文句は言えない。
仮に2つぐらいの超大国が組んで、世界相手に戦争をして勝ったとしても同じです。どうやって世界全体を統治するのでしょう?
イラク戦争を見るまでもなく国を破壊するのは簡単でも、たとえ1国であっても統治するのは大変です。世界というとてつもなく大きな、いつ暴発するかわからない火薬庫を自らの内側に抱え込むようなものです。自らの国を亡ぼすために戦争するようなものです。
侵略など出来ないことは、どんな国でもわかると思います。

侵略など不可能な法をまず作る。
実質上戦争が存在しないなら強大な軍事力を持つことは意味を失くす。軍事的圧力(脅迫)という外交カードにすらならない。武器を持つことから派生するよからぬ”快”の追及は出来なくなる。おそらく自然と軍縮も進みますよ。
身を守るために発動する恐怖という”不快“が、道具を使う人間に武器を作ることを思いつかせた。そのことを否定しても仕方がない。人間はおそらく自然界で絶滅の危機に見舞われるほど弱すぎたのでしょう。でもシステムを変えることで、軍事兵器を持つ必要性を感じない世の中はおそらく作れる。不必要な恐怖を感じなくなれば、人の心が向かう方向も変わりませんか?
基本的にはあなたの考えに賛同です。不快(例えば脅し)を内包した快(例えば富の追及)などには後ろめたさが伴う。本当の意味での幸福感などないと思う。

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