今日参加したある会議で、「最近の若者は新聞を読まない」ということが話題になっていた。新聞を読まないのみならず、スマホやPCでニュースを見ることもしない若者が増えているという。50歳代以上が中心のメンバーは異口同音に「最近の若者は...」という口調。しかし、「それって、本当に問題?」を問い直す余地があるのではないか。
20数年前、アメリカに2年間住んでいたとき、僕は日本のニュースにはあまり触れなかった。ニュースは当然ながらアメリカ目線。日本に帰ってみると、その2年間だけ、日本の事件や政治状況について疎い自分がいた。不便な面もあったが、特に困ったわけではなかった。日本の流行歌を知らないことが一番残念に思えたくらいのものだった。逆に、日本目線の画一的情報から一度離れたことが広い視野に大きくつながった実感があった。
つまり、日本で手に入りやすいニュースを見て日本全体の画一的な情報を共有している、ということにどれくらいの意味があるのか。フェースブック等で個人的なコミュニティーの情報を共有することの方が重要なコミュニティーだってあるではないか。ローカルで濃い個別の情報を持っていることがイノベーションにつながることも大いにあるではないか。逆に海外の視点からのニュースを浴びている人の希少価値にも大いに意味があるではないか。日本の枠を超えた様々な世界的視点を持っていることがこれからの時代には必要なのではないか。ローカルと、グローバル。
つまり、現代型のグローバルネットワーク社会では、日本の大新聞やキー局のニュースを中心に見るというやり方は、むしろ利点よりも欠点の方が大きくなりつつある可能性は無いか。考えてみると、日本の常識的なニュースを理解していることは、大企業が護送船団方式でみんな一緒に日本型勝ちパターンを目指していた時代の意識統一のためには極めて有効だったと言えよう。すなわち、我々は、20世紀には、画一的価値観を押し付けられていたということに過ぎないのではないか。逆に、画一的情報を求めない現代の若者は、多様化を実践する現代的な生き方を直感的に選択しているのであって、責めるべき筋合いのものではないのではないか。多様な情報を得た多様な者が多様につながり合うことによって、多様な価値やイノベーションや文化が生まれる。そんな新しくすばらしい時代の萌芽なのではないか。「近頃の若者は...」といいながら画一的情報を享受する大人は、むしろ時代を読めない前時代的保守派/改革抵抗勢力なのではないか。
そんなことを思い、主張したが、多勢に無勢だった今日の会議。補足しておきますが、日本全国均一のニュースを見たり読んだりすることがダメだとは言っているのではありませんよ。それも大いに結構。しかし、それだけがベストという時代は終わったのではないかと思うのです。画一から多様化へ。合理一辺倒から鋭敏な感性へ。成長第一主義から多様な幸せの時代へ。。。「慣性って、大きいなあ」と感じた今日の会議でした。
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