多くの国会議員が靖国神社に、というニュース。
かつてない数の中国船が尖閣諸島(魚釣島)沖に、というニュース。
どちらも残念に思う。僕個人の意見を述べたい。
慶應SDMで教えるシステムズアプローチでは、問題の的確な把握のために「多視点」の吟味を勧める。当然ながら、広い視点は狭い視点を包含する。
日本人の視点、中国人の視点、アジア人の視点、地球人の視点を吟味したら、靖国参拝というソリューションが最適だということにはならないのではないか。狭い視点には狭い視点で対峙するのではなく、広い視点から包含的に問題解決すべきではないか。ナショナリズムよりもアースリング(地球人)、競争よりも協創、二項対立よりもアコモデーションではないか。狭い視点と広い視点が矛盾したときには、狭い方の視点をぐっとこらえて、広い視点から新しいソリューションを創造的に作り出すべきではないか。感情よりも理性、ネガティブ感情よりもポジティブ感情。
争いは生産的ではない。コスト最小という観点からみると、最適ではない。最適でないばかりか、極めてハイコストである。両者にとって、大きな不利益である。よって、競争よりも協創の方が遥かに優れている。したがって、争いの原因となるアクションは十分に考慮してから行うべきである。もちろん、行わないのがベストである。話し合うべきである。話し合いができないなら、話し合いをする方向に環境整備すべきである。感情的になるべきではない。お互い大人の対応をすべきである。憎しみよりも信頼、疑いよりも誠実の醸成を目指すべきである。
中国人も日本人も、同じアジア人。分けるから争う。分けない立場をともに再認識すべきである。もちろん、アジア人も、アメリカ人も、アフリカ人も、みんな、地球人。
過去の歴史は直視すべきである。痛みも悲しみも共有すべきである。しかし、過去の一点に視点を固定すべきではない。1000年を俯瞰する視点から歴史を見るべきである。俯瞰的視点。地球を見る視点。
そういう視点から、平和について見つめ直すべきではないか。宗教対立も、国家間対立も、不毛である。宗教や国家というセクショナリズムは、金銭的にも、物質的にも、精神的にも、かける時間という意味でも、ハイコストである。応酬の連鎖はきりがない。悲しみの連鎖である。心安らかに、問題解決を目指すべきである。なのに、人間はなんて愚かなことか。
1500年の歴史を持つ「和の国」日本こそ、和の思想を世界に広める義務があるのではないか。時代は、国家間対立からグローバル化、ピラミッド型からネットワーク化、トップダウンからボトムアップ化の時代である。俯瞰的視点から見れば明らかな、この大きな潮流。これは止められない。保守主義、民族主義、国家主義は、大きな潮流に対する小さな揺り戻しである。波が満ち引きを繰り返すように、大きな視点と小さな視点が波動を描くことは残念ながら避けられないのかもしれない。そうだとしても、今、歴史的視点から見ると「小さな」揺り戻しが、人間サイズから見ると思いのほか大きいことには、憂いを感じざるを得ない。
問題は、では、私たちは、何をすべきか、である。行動しよう。行動しないと、改善しない。改善しないと、解決しない。
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