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慶應SDMで博士号を取得するとはどういうことか

慶應SDMについて色々と述べてきたが、ついつい学生の多数を占める修士課程の話をしがちである(修士課程、博士課程の定員は、それぞれ、1学年77名および11名)。博士課程についても考えを述べよう。

その前に、まず、一般に博士とは何か。

1991年の学位規則改正までは、工学博士、経済学博士のような分類だったが、改正後は、博士(工学)、博士(経済学)のように専攻分野名が括弧内に記述されるようになった。一見、同じようなものに見えるが、前者は「ある専門分野における博士」だったのに対し、後者は基本的に皆同じ「博士」であるという考え方に基づく。後者はアメリカのPh.Dの考え方に近い。Ph.Dは Doctor of Philosophy の略。Philosophyは、哲学という意味ではなく、あらゆる学問という意味。

一般に、学生は、大学の学部に4年、大学院修士課程に2年、大学院博士課程に3年通うことが標準(もちろん標準年限が異なることもあるし、標準年限を超える学生もいるが)なので、博士課程は修士課程の続きだと考えられがちだが、僕はそう捉えるのはニュアンスが違うと思う。特に日本では。というのは、たとえばアメリカの工学系では、修士課程だけを修了する学生よりも、修士課程に続いて博士課程に進学する学生の方が圧倒的に多いので。

日本の修士課程学生は、学部の延長線上として学び、その多くは社会に出て行く。大学や研究機関の研究者になる者は少ない。これに対し、博士課程学生は、研究を極め、大学や研究機関の研究者を目指す者が多い。ここが違いだ。
日本では、修士課程は人材育成的な色合いが強く、博士課程は学問の進展を担うという色合いが強い。誤解を恐れず述べると、基本的に、修士課程は「自分を鍛える場所」、博士課程は「研究を極める場所」。もちろん、修士課程でも研究を行うし、博士課程でも自己の成長を果たせるのだが、重点が異なることを意識していないと間違えると思う。

つまり、一般に、博士号は、レビュー付きの学術誌に論文を投稿し、採録され、学術の進歩に寄与し、ある小さな(大きくてもいいが)分野を体系化したことに対して与えられる学位である。修士の学位も、建前は、ある研究を行い学問の進歩に貢献したことに対して与えられることになっているが、修士論文のレベルが残念ながら学術誌投稿レベルに到達していないケースは少なくない。僕が指導してきた慶應の理工学研究科とシステムデザイン・マネジメント研究科の修士課程学生には、レビュー付きの学術誌に論文を投稿するレベルを目指せ、と言ってきたが、残念ながらそのレベルに到達できずに修了する者が少なくない(理工学研究科時代は半分くらい、SDMでは過半数)。それでいいのかという議論はあろうが、実際現状はそうなのである。これに対し、博士課程ではそれは全く許されない。学術誌に論文が採録されることが必須なのである。これは必要条件であって、十分条件ではない。ここが今日ここで述べたいことである。

SDMでも「論文がいくつくらい採録されることをもって博士号取得の目安にしよう」というような合意がある。これが一人歩きして、「何本論文を通せば学位がもらえるらしい」という噂がSDMでも流布しがちだが、これは勘違いである。論文が何本通っているか、というのは単なる目安である。それで博士号を差し上げる訳ではない。

ではどうすれば博士号を得られるのか。
答えは、上に書いたように、「学術の進歩に寄与し、ある小さな(大きくてもいいが)分野を体系化すること」を達成することである。

スポーツと似ている。練習に練習を重ね、あるレベルに到達すると、それまで見えていなかったものが見えて来ることがないだろうか。険しい森の中を歩いたあげく、見晴らしのいい丘の上に出てきたときのように。そういう一つの達成感を感じること。それを研究という分野で感じること。これが、博士の学位を取得することである。博士の学位を取得することは、研究者として一人前になることである。ある自分の分野という丘の上にたち、ある小さい(大きくてもいいが)分野で世界の第一人者になることである。単に論文をいくつか書くことではない。論文一つは、川を渡るとか、小さな谷を越えるとか、そういう、丘の頂上に出るためのひとつの障害の克服にすぎない。論文をいくつか通すことは、障害をいくつか克服したことにすぎない。それらを体系化して、一つの丘を極めること、それが学位論文を書くことである。大学に提出する学位論文は学会に提出する投稿論文よりも一回りスケールが大きい。投稿論文は一つの新規性を主張すること。学位論文はいくつかの新規性を体系化して、一つの学問体系をまとめること。だから丘に登ったかのように、自分がこれまでに書いてきた論文のみならず、周りの研究者の研究も、丘から見下ろすかのように俯瞰できるのだ。一つの丘を極めると、さらに他の丘も見えるようになる。システムとして研究体系というもの一般を俯瞰できるようになる。だから深く狭いばかりではなく他分野への応用も利く。他分野の研究も、部分としてではなく体系として理解できるようになる。それができるようになったことを認定するのが、博士号である。そう思う。

スポーツの指導者は指導される者よりも上の資格または能力を持っている必要がある。そうでないと、指導ができるとはみなされない。教育も同じだ。学部学生を指導するためには修士号を得ているくらいのアドバンスがあるべきだ。修士課程の学生を指導するためには博士号を持っているべきだ。これが大学での一般的な考え方だと思う。もちろん、別の分野の専門性で代替することはある。しかし、基本は学位だ。これが大学の世界でのルールだ。修士号取得だって小さな丘だろう。自分を鍛えるということに重点が置かれた丘。博士課程取得はそれよりもかなり大きな丘だ。学問体系という丘。だから、修士課程学生を指導するためには、大きな学問体系という丘のてっぺんからそれぞれの研究テーマや学生の成長の様子を俯瞰できているべきなのだ。

僕自身、投稿論文を8編ほど書いて博士号を取得したときには「超音波モータ」という丘の頂上に立ったことを実感した。マイナーかもしれないが、超音波モータという分野で世界の第一人者になった。その後理工学部の教員として十数年の間に60編くらいの論文を(学生と連名で、あるいは単名で)書き、いくつかの丘の頂上に立った。触覚とか、ロボットハンドとか。2008年にSDMに移ってからは、これまでとは違う丘にもたくさん登り、書いた論文はもうすぐ100編くらいになる。こういうことを繰り返すことによってこそ、いろいろな世界を俯瞰できるようになったのだと思う。もちろん、まだ登ったことのない丘は無数にあるが。

では、やっと本題。SDMで博士号を取るとはどういうことか。

SDM学は、インターディシプリナリな(interdisciplinary、学問分野横断的な)学問分野である。だから、SDM学の博士の学位を取るということは、普通の丘を登ることに加えて、他の丘も俯瞰できるくらいの学問分野俯瞰力を身につけることなのではないかと思う。

現実的に、そうする必要がある。なぜなら、SDM学会というものはないから、投稿論文はどこかのディシプリンの丘で書かざるを得ない。それに加えて、いくつかの丘の頂上に新たにロープウェイを張り巡らせたように、いくつかの丘を自在に行き来しながら学位論文を書かねばならない。両者の両立が必要なのだ。だから、SDM学という学問の構造に依存して、SDMで学位を取るのは他の学問の学位取得よりもさらに難しいのだ。そう思う。社会のニーズを俯瞰していないからSDM的ではないとか、逆に、システマティックに専門を極めていないから研究ではないとかいう議論がSDM内でよくある。どちらの主張も間違いで、両方をやるのがSDM的なのだ。

つまり、SDM学の学位取得は、決して、ノルマと噂されている量の論文を書くことではない。それは単に必要条件である。十分条件は、繰り返すが、いくつかの丘の上に立っていくつかの学問体系を俯瞰できる実力を身につけることなのだ。そして、そうであるからこそ、世の中が必要とする研究者なのだ。もちろん、大学教員や研究機関の研究者にならなくてもいい。しかし、いずれかの専門分野の学者として活躍できる能力を身につけ、しかもSDM学の最先端を切り開く能力も身につけ、広く社会の様々な場で活躍することのできる者であるべきなのだ。ハードルは高いのだ。

以上、自分の考えを述べた。文部科学省の定義とは異なる点もあったかもしれない。他分野の方から見ても、SDMの方々から見ても、細かい点には異論もあるかもしれない。しかし、言いたいことは、細かい話ではなく、俯瞰的な概念としての話である。SDMの博士課程の学生と、SDMの博士課程を志す方には、以上の点を十分に理解していただきたいと切に願う。
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